社名 株式会社 JRF
代表取締役 北浦 一司
本社 130-0004 東京都墨田区本所1-34-10
電話 03-6277-0567 FAX 03-6277-0566
会社設立 2003年3月
資本金 1.000万円
取引銀行 東京三菱銀行 神保町支店
会社沿革
昭和62年03月21日 屋号を日本建装とし仕上工事の請負業を始める
平成03年01月31日 法人成りし 会社称号を、有限会社 日本工房と命名。内装工事請負業を営む
平成09年12月01日 組織変更し 有限会社から株式会社となる
平成15年03月26日 建築・内装工事引渡し後のメンテナンスをユーザーからリサーチ
  メンテナンス分野を子会社へ移行決定、株式会社JRF設立に至る
会社趣旨
1. 建築物のジャンルを選ばない小規模修繕を、短時間・低料金でサービスを提供する組織とする。
2. 常にユーザー側の立場に立ち、修繕依頼に選択肢の無い対応で企業努力をする。
3. 会社決算後に、利益の一部を会員・非会員を問わずインターネット上で応募者を募り、バリアフリー等の改修工事を無料で実施。
4. 会社の利益追求だけでは無く、社会献身と環境への配慮を怠らない組織とする。
5. プロの技術者で有ると共に、サービス業の接客対応を兼ね備えた人材育成を目指す。
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皆様初めまして、この会社の責任者をしております北浦一司と申します。
ある本を読んでいる時にナルシスト(自己陶酔)の事が書いてあり、自分はナルシストでは無いと自負しつつ読んで見ると、少しだけ?ナルシストだと言う事に気が付きました。何でも自分の顔を撮られるのが嫌いな人は、自分が思い描いた写真にならないのが理由だそうです。

さて普通の会社のホ-ムペ-ジであれば、弊社の企業理念が....と表現するのですが、この際、陰日向なく世界中に滑稽な自分と会社を、表現してしまおうと考えましたので筆を走らせる事にします。
私は東京都武蔵野市で出生、その後三鷹市に移り、6人兄弟の長男で、生まれながらにして病気を患いながらの走り出しです。当時私は高校進学に興味が無く、義務教育の終焉後には働きたいと思っておりました、しかし両親の勧めと言うか強制的?に高校進学への道を選択、結果合格したのですが、さほど知能を必要としない高校でしたので当然の結果です、そして何故か入学式の時に、突然先生のような方に呼ばれ生徒代表の発言を依頼され、壇上にて同じ新入生や学校関係者の方々に、これからの抱負を述べましたが、一番初めに中退と言う轍を踏んだのは私でした。

親に勘当宣言され、昼夜アルバイトをして安アパ-トを借り、一人暮らしを始め、人生の青写真など描きもせず、ただ衣食住するだけの毎日で、転々とアルバイトをして自分が18歳になろうかと言う時に、自動車免許が欲しくなり教習所へ通う事を考えましたが、金銭的余力などある訳も無く、周りの友人は免許を取得し車を乗り回し遊んでいる姿を見て苦悩する始末。その時期に国分寺でアルバイト先だった自動車解体屋の社長から「教えてやるから試験場で取れよ」と言われ、仕事が終った後にその敷地内で教習して頂き、通算5度目で取得。さらにその社長が、解体で引き取った廃車寸前の車を、一時名義変更して私に与えてくれて、燃料は解体車から集めたブレンド品?で賄い、その社長には今でも感謝の一言に尽きます。

ですが人間の感情はいい加減で、今度は漠然と「お金」が欲しくなり、自動車解体の仕事を辞め、職人をしてみようと思い、父親が建設業に携わる仕事を営んでいる理由と、高校中退者の私に、働くけるストライクゾ-ンは限りなく狭窄していたので、迷わずの選択でした。殆んど勘当に近い身分でしたが、世田谷の知人を紹介してもらい働き始め、自分が中学生だった頃、夏休みに父親の仕事を手伝っていたので、大まかな基本は身に付いていましたので覚えるのは時間の問題です。

あるときその会社の先輩達が「今度独立するから一緒にやらないかぁ」と相談を受け、聞かされたコミッションの内容に快諾し、愚かにも世田谷の会社を辞めて先輩達と仕事を始めました、とにかく「お金」が欲しかったので馬車馬のように働き、毎日夜中の1時頃解散して6時集合など普通でした。1年程一緒に行動した後「そろそろ自分で請け負って仕事がしてみたい」などと世間知らず勝手極まりない相談をして、先輩からの仕事を請け負うようになりました。

その直後、偶然でしたが、共通の先輩を知っていたスタントマンをしている友達から「北浦君さぁ、狛江で勤めている先輩が内装業者探しているんだけどやらない?」と相談され、またまた快諾!?早速会社へ伺い仕事を頂く事になりました。その会社は当時、外来種の住宅を請け負う会社で、景気も良く現金決済です。いつしか顧客も増えて、個人事業主でしたが、父親や兄弟そして友人、その友人と、一時期15人の所帯を抱え快進撃真っ只中で、税理士からは「あんたもっと経費使っても大丈夫だから」などと煽てられ木に登る始末、そして自分が23歳の師走を迎えるあたりに、外来種の住宅会社が会社更生法申請を申し立て、初めての倒産劇を見るはめになったのです。

当初は現金決済の会社でしたが、何故か支払いが、取引途中から半金半手で、そのうちオ-ル手形で決済日が15日から30日、次ぎは45日、またまた今度は60日90日と延びていたのでした、道路の信号機で言えば黄色点灯中!ですが、経営知識の無さと情に負けての結末。もちろん関連会社も倒産して夜逃げされ、総負債額1000万弱で借金地獄の始まりです。 付き合いのあった金融機関の担当者が便宜を図ってもらい、運転資金として一部調達して手形との差し替えをしたり、払えない業者さんへは一部支払凍結や分割払いをお願いする日々でした、精神的打撃と自分が若すぎた事も有り、正直告白しますと話が纏まらず言い争いになった事も有り、ずいぶんとご迷惑をかけました。

労働欲も失せ、仕事もせず日々過ごしていると、一人また一人と辞めて行き結局残ったのは借金だけで、まさに一瀉千里を骨身で痛感する次第でした。兎に角、返済はしなければならないので働きましたが、今一歩気持ちが前へ進みません。あるとき、自動車解体の仕事をしていた時の、取引先自動車修理会社の顧客であった、設計士の方から「店舗工事の請負をしてみない?」と連絡をもらい懲りずに快諾!しかし全く知識が無く、電話を切った後、店舗の現場管理の仕事をしている友達に「マネ-ジメント払うから手伝ってくれょ」と哀願し請け負う事になったのです。

業種的には同じなのですが、やはり部分的な仕事と総合的な仕事では内容も違い、頭脳労働は、かえって自分には刺激にはなりましたが、分からないことばかりで、いろいろと苦渋をなめて懲りているはずなのですが、無謀な私は殆んど休みなしで、試行錯誤と失敗を重ね借金を多少?増やしながら生活を送っており、朱に染まれば赤くなるではありませんが、仕事上の付き合う環境も友人も変わって行きました。

性格的にケチなのかも知れませんが、何しろ駆け出しの仕事ですから利益率も上がらず、考えた挙句「できる仕事は自分がやってしまえば」と請け負った仕事を、一部外注に依頼せず自分でする事にしたのです。引渡しを無事終らせた後に、簡単な原価計算をしてみると...ハッキリ申し上げられませんが儲かる事を知り、一部外注、一部責任施工(自分)の頭脳労働と肉体労働を折半した仕事形態にしようと決めたのです。

月日は過ぎ、とある病院の仕事をしている時に、ドクタ−から「北浦さん、今度私は開業するからクリニック作ってくれませんか」と相談を受け、その仕事をするテナント現場での打ち合わせをしている時に、ビルの防災設備会社担当者を紹介され、後に別の案件でも、付き合いが始まったのです。

ある日「北浦さん今度いいお客さん紹介するよ」との電話。数日後その消防設備会社社長に同伴して頂き、社長の顔利きでお付き合いをさせて頂ける事になり、紹介を受けた会社は、大変業績の良い会社で設備投資にも余念が無く、なんとその企業は瞬く間に株式上場を果たし、おかげで仕事にも恵まれ、順調に高い授業料を完納することも出来たのです、さらに法人設立(株式会社日本工房)にも至り現在無借金経営の優良?企業にまでたどり着きました。そして今回、僅かな自己資金と有志を募り(もちろん取締役になっております)、株式会社JRFと言う新たな組織を発足させたのです。

私のような若輩者が人生を語るに時期早々だと承知の上で申し上げますが、仕事で「お金」が欲しければ、相手に尽くし、相手が喜んで払っていただける人格や組織とならなければ駄目だと言う事と、座右の銘として、あいまいな記憶しか無いのですが、とある異国の方の言葉で「変えられない運を受け入れる静かな心と、変えられる運に立ち向かう勇気を学ぶため生きる」と言う言葉に感銘を受け、日々戒める所存でございます。

折角この世に生かされているようなので、会社責任者として人間として、会社の人達や仕事関係者さらに、社会に尽くし生きたいと思います。

最後になりますが、話が断片的な上に乱筆乱文?失礼しました、少々学習不足ですので勉強して訂正するつもりですので、その間ご容赦ください宜しくお願いします。
                             
株式会社JRF
                          代表取締役 北浦一司


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